先日、スペシャリティコーヒーを特集した番組を見ました。
これまで私は、スペシャルティコーヒーを「高級なコーヒーのことだろう」くらいに考えていました。サードウェーブよりもイノダや前田珈琲に足が向く人間だったもので。。。
ところが、スペシャルティーコーヒーについてよく調べてみると、単に価格が高いコーヒーを指す言葉ではありませんでした。
一言でいえば、スペシャルティコーヒーとは、栽培や収穫から精製、輸送、焙煎、抽出まで丁寧に品質が管理され、その土地や品種ならではの際立った風味を楽しめるコーヒーです。
生産地や品種、精製方法などが示され、なぜこの味になるのかを知りながら選べる。その仕組みは、消費者にとってとても分かりやすいものでした。
そんなスペシャルティコーヒーの番組でありながら、私は途中からずーっと抹茶のことを考えていました。
豆と葉。焙煎と火入れ。抽出と点てる所作。まったく違う飲み物であるはずなのに、その奥にある構造は驚くほど似ているように感じたからです。coffeeとteaの境界のなさを感じます。
その感覚を確かめたくなり、名古屋のスペシャリティコーヒーの店へ行き、実際にいくつかのコーヒーを飲んでみました。
国や産地の違い。
ウォッシュドか、そうでないか。
精製方法によって生まれる香りや酸味の違い。
飲み慣れていないからこその違和感を感じつつも、いつも何気なく飲んでいるコーヒーとはまったく別の世界がそこにありました。
そのなかでも印象に残ったのは、ケニアのシングルオリジンのエスプレッソです。
口に含んだ瞬間、指すような酸味がありました。

いわゆる日本で馴染みのある、飲みやすく整えられたコーヒーとは違います。
個性の際立った味をしていたのです。
しかし、その強い個性に触れたとき、少し理解できた気がしました。
スペシャリティコーヒーを好む人たちは、ただ「飲みやすい味」だけを求めているのではない。
産地や品種、精製、焙煎によって生まれる違いそのものを楽しんでいるのだと思います。
そのコーヒーを飲みながら産地に思いを馳せる。
その姿はまさに私がやろうとしている「旅する抹茶」のコンセプトそのものでした。
コーヒーにおける「違いを楽しむ文化」
スペシャリティコーヒーという言葉は、1974年にErna Knutsenによって使われたと言われています。
それは、単に高価なコーヒーという意味ではありません。
どこの土地で育った豆なのか。
どのような品種なのか。
誰が育て、どのように精製され、誰が焙煎し、どのように抽出されるのか。
一杯のコーヒーに至るまでのすべてが、味に関わっている。
その考え方こそが、スペシャリティコーヒーの本質なのだと思います。
一方で、コーヒーにはコモディティとして扱われる世界もあります。
そこでは、品質や産地の個性よりも、量と価格、安定供給が重視されます。
大手企業に大量に売られ、一定の品質で、同じような味として流通していく。
もちろん、それは産業として必要なものです。
毎日、多くの人が手軽に飲むためには、均一で安定した商品が必要になります。
オフィスのポットの横に無造作に置かれているインスタントコーヒー、
コンビニで100円で買えてしまうホットコーヒー。
こういった商品もビジネスにおいては欠かせな「日用品・汎用品」のような存在です。
しかし、その世界だけでは、一杯の奥にある土地の気配や、作り手の仕事は見えにくくなります。
取引されることで差別化できなくなり、人の手が感じられなくなる。
この構図は、今の抹茶にもよく似ています。
抹茶も、同じ分かれ道に立っている

日本において抹茶は長いあいだ、茶道という文化の中で受け継がれてきました。
一般の家庭で毎日飲まれることはまれで、茶道としての作法や稽古、茶会の中にある特別な飲み物でした。そして特別な飲み物でありながら茶道という中では道具が重視され、抹茶にはそれほど重きを置かれていなかったのが日本の現実です。
茶道はするけど、抹茶は毎日飲まない。
ペットボトルのお茶はいつも飲むけど、抹茶はお稽古の時だけ。
いまでも茶農家さんと話をするときに「抹茶は斜陽産業だったのにねぇ」と話題になります。
けれど現在、抹茶はその枠を大きく超え始めています。
海外のカフェでは抹茶ラテとして提供され、レストランではデザートやドリンクに使われ、家庭でも手軽に楽しむ人が増えています。
見せに来る海外旅行者の中には毎日抹茶を飲むという人もいました。
ある意味で、抹茶は21世紀に入ってから、世界的に普及し始めた飲み物なのかもしれません。

コーヒーがエチオピアに起源を持ちながら、アメリカで日常的な飲み物として根づいたように、抹茶もまた、日本の茶道という文化の一部から、世界のどこかの国の日常へと移っていく可能性があります。
その入口にあるのが、今の抹茶ラテだと思います。
甘く、飲みやすく、鮮やかな緑色をしている。

抹茶を知らない人にとって、それは十分に魅力的な出会いです。
抹茶ラテという一種の産業ドリンク化することに、日本ではいろいろな意見があります。
特に茶道を嗜んでいる人からは、世界的なブームになることで抹茶が手に入りづらく、価格も高騰することに批判的な意見も聞くことがありますが、私は抹茶が日常になる入口としては、それでよいと思います。
最初から苦味や旨味、余韻を理解する必要はありません。
まずは美味しいと感じること。
緑の飲み物に興味を持つこと。
そこから始まる文化もあって良いのではないでしょうか。
ただ、味だけにフォーカスをすると、その世界は深くなればなるほど少しずつ余計なものが削り落とされシンプルになっていきます。
甘さを足して楽しむ段階から、やがて、葉そのものの香り、色、旨味、苦味、余韻を楽しむ段階へ移っていく。
コーヒーがそうであったように、抹茶もいずれ、
「これはどこの抹茶か」
「誰が作った抹茶か」
「どのように仕上げられた抹茶か」
ということが問われる時代に入っていくのだと思います。
シングルオリジンという分かりやすさ
スペシャリティコーヒーの店で飲んでみて、よく分かったことがあります。
シングルオリジンは産地を知る情報としてとても分かりやすいのです。
ケニア。
エチオピア。
コロンビア。
ウォッシュド。
ナチュラル。
浅煎り。
深煎り。
そうした情報が、味の違いと結びつきやすい。
飲む前に産地や精製方法を知ることで、飲む人はその一杯を理解しようとします。
そしてその情報があることによって味のイメージがしやすくなります。
実際に飲んで、酸味や香り、余韻の違いを感じる。
それは、単に美味しいかどうかではなく、違いを味わう楽しさです。
同じ一杯のコーヒーでも、その違いが面白い。
そう考えると、海外のお客様が抹茶に対して、
「この抹茶の品種は何ですか」
「シングルオリジンですか」
「どこの茶園の抹茶ですか」
と聞く理由も分かります。
彼らは、抹茶をコーヒーと同じように、産地や品種から理解しようとしているのです。
その姿勢は、決して間違いではありません。
ただし、抹茶はコーヒーとは違う。抹茶には抹茶の文化があります。
単一品種という入口、合組という奥行き

丸竹夷では、早ければ8月から9月頃に、オリジナルの単一品種・シングルオリジン抹茶の販売を予定しています。
ただ、私個人の勝手なこだわりなのですが、海外の流行に合わせるためだけの商品にはしたくありません。
私はこれまで、抹茶においては合組の価値を大切にしてきました。
以前のブログでも書いたように、抹茶の味は品種だけで決まるものではありません。
同じ品種でも産地や栽培方法、加工方法により味は大きく変わります。
これはむしろスペシャリティコーヒーが好きな方には理解しやすいことだと思います。
そして合組とは、ただ複数品種の茶を混ぜることだけを言うのではありません。
たとえば「さみどり」という単一品種でもその茶園の場所、樹齢で味は大きく変わります。
合組とはそういったことも見極め、ひとつの完成された味へ整えていく仕事なのです。
抹茶において、合組は非常に高度な技術であり、茶師の美意識が表れる場所でもあります。
単一品種だけが正しく、合組が古いということではありません。
むしろ、日本の抹茶文化の深さは、合組によって支えられてきた部分が大きいと思います。
一方で、当店が先日販売した「旅する抹茶 己高」は滋賀県長浜市の小さな茶園から採取された「やぶきた」という品種です。このように単一産地から単一品種を抹茶にするというのは、また別の面白さがあります。
一服の抹茶を通して、その土地の風景や気候、作り手の営みに思いを馳せる。
そこには、単一産地ならではの静かな美しさがあります。
その土地の気配。
品種の輪郭。
年ごとの表情。
味が整いすぎていないからこそ、茶葉そのものの個性が伝わる。
それは、スペシャリティコーヒーにおけるシングルオリジンに近い楽しみ方かもしれません。
私が単一品種・シングルオリジンの抹茶を扱おうとしているのは、合組を否定したいからではありません。
海外のお客様が、抹茶を理解する入口として、産地や品種を知りたいと求めている。
その問いに対して、日本の抹茶の文脈を崩さずに応えてみようと思ったからです。
そしてゆくゆくは日本でもこのような抹茶の楽しみ方をしてもらえたら嬉しいなと。
海外の方へ言いたいのは、単一品種が抹茶のすべてではありません。
それがゴールでもありません。しかし、抹茶の世界へ入るための美しい扉にはなり得ます。
そしてその扉の先には、合組というさらに深い世界があります。
浅煎りのコーヒーと、宇治抹茶の余韻

スペシャリティコーヒーに浅煎りが多いのは、豆本来の個性が表れやすいからだと言われます。
深い焙煎は味をまとめやすい一方で、産地の繊細な違いが見えにくくなることもあります。
これは抹茶にも似たところがあります。
宇治の抹茶には、強く作り込みすぎず、葉の持つ香りや旨味を静かに引き出すような仕上げの美しさがあります。
火入れの加減。
合組の感覚。
香りの出し方。
そこには、茶師の仕事があります。
これはコーヒーであれば焙煎士、抹茶であれば茶師。
豆と葉という違いを超えて、優れた職人の仕事には共通するものがあります。
余計なものを足さず、素材の輪郭を見極めること。
味を追い詰めるほど、構成は穏やかに静かになっていくこと。
そして、良いコーヒーにも良い抹茶にも、飲み終えた後の余韻があります。
飲んだ瞬間の強さだけではありません。
しばらくしてから口の中に戻ってくる香り。
喉の奥に残る余韻。
もう一度飲みたくなる静かな余白。
「もう一口。」
そこに、産地と職人の仕事が現れます。
大量生産される抹茶と、本当に良い抹茶
抹茶の需要が高まれば、産業としては必ず大量生産と均一化が求められます。
九州や静岡でそれが進んでいますが、広い土地で効率よく栽培され、抹茶を安定した価格で、安定した量を供給しようとしています。
同じ用に中国などでもそれは進んでいます。
それは市場にとって必要な存在です。
抹茶が世界に広がるためには、そうした供給も欠かせません。
しかし同時に、特徴のない「ただの抹茶」が増えていく可能性もあります。
色が緑で、粉末で、ラテにすればそれらしく見える。
それを使えばファストフードやコンビニで抹茶特集が組める。
そのような抹茶が増えれば、抹茶の基準は少しずつ下がっていくかもしれません。
いや、現実として下がりつつあります。
本当に良い抹茶は、もともと大量にあるものではありません。
茶園に肥料を与え、草むしりをし、4月になれば覆いをかけ、摘み取り、蒸し、乾燥させ、碾茶に仕上げ、石臼で挽く。また肥料を与え、刈り込みをし来年に備える。
その工程のどこか一つでも粗くなれば、味は変わります。
さらに、優れた茶園、優れた原料、優れた仕上げは、限られた量しか存在しません。
私が店を閉めてまで現地に行く理由はこれです。できるだけ現地へ行きます。
茶畑を見て、生産者の話を聞き、その土地の空気を感じる。
それは仕入れのためだけではありません。
その抹茶がどのような土地で生まれ、どのような人の手で作られているのかを、自分の中に入れるためです。
私はそれを、生産者に対する売り手の礼儀だと考えています。
そして、良い生産者の抹茶はどんどん進めていきたい。それは技術だけでなくその人の人間性も品質に関係すると考えています。
抹茶は、箱に入った規格品ではない

抹茶は、箱に入った規格品ではありません。同じ容量の缶に入っていても、中にあるものはまったく違います。
産地が違い、品種が違い、栽培が違い、仕上げが違う。
そして、それをどう伝えるかによって、お客様の一杯も変わります。
海外のカフェでは、抹茶が一杯1,000円ほどで提供されることがあります。これは高いと感じる人もいるかもしれません。
けれど、そこに至るまでの工程と、関わる人の手を考えれば、良い抹茶は決して高すぎる飲み物ではありません。
むしろ、まだ十分に価値が伝わっていない飲み物なのだと思います。抹茶の市場は、コーヒーのようにはまだ成熟していません。
世界的な人気は高まっていますが、その分だけ不安定で脆さもあります。
一時的な流行で終わるのか、それともスペシャリティコーヒーのように、産地や作り手を選ぶ文化へ進んでいくのか。
急速なブームを背景に、文化の分かれ道に今の抹茶は立っています。
流行を入口にして、抹茶の奥行きへ
丸竹夷がこれから扱う単一品種・シングルオリジンの抹茶は、海外の流行に合わせるためだけの商品ではありません。
それは、抹茶を初めて深く知ろうとする人にとっての入口であり、産地や品種の個性を楽しむための一杯です。
そして同時に、合組という日本の抹茶文化の奥行きを知るための出発点でもあります。
美味しい抹茶を求めるなら、少しだけ背景を見てほしい。
どこの産地なのか。
誰が作っているのか。
どのような用途に向いた抹茶なのか。
なぜその価格なのか。
それは難しい勉強ではなく、味わいを深くするための静かな好奇心です。
遊ぶように飲んでくれれば幸いです。
今日は何にしようか。そうやってコーヒーの豆を選ぶ人たちのように。
抹茶にも、選ぶ楽しさがあります。
スペシャリティコーヒーが、世界中の人に「一杯を選ぶ楽しさ」を広げたように、抹茶にもその未来があると思います。
流行に飲み込まれるのではなく、流行を入口にして、抹茶本来の奥行きへ案内すること。
それが、丸竹夷としてこれから大切にしていきたい姿勢です。




